プロフィール
東京生まれ、1981年より仙台居住。伊達家伯記念會会長、伊達家鳳文会総裁、瑞鳳殿名誉資料館長、東北放送文化事業団理事、仙台藩志会総裁、仙台商工会議所顧問。
伊達家伯記念會
宮城県仙台市青葉区大手町10-23(伊達遊学舎)
TEL.022-213-4840
http://datemasamune.com/
今年は、伊達政宗公生誕450年の年になります。
仙台ではさまざなま記念行事が催されています。
「杜の都」の礎を築いた藩祖伊達政宗公から数え、十八代目当主・伊達𣳾宗氏に、時代を超えて受け継がれる政宗公の遺産と、まちに息づく伊達文化の歴史を後世にどうつないで行くべきか、伺いました。
伊達政宗公は、1567年出羽国米沢城に生まれ、1636年江戸桜田上屋敷で70歳の生涯を閉じました。現在は遺命により造営された霊屋、瑞鳳殿に眠っています。瑞鳳殿は桃山様式の豪華絢爛な建物で、1931年に国宝に指定されました。1945年の仙台空襲で焼失し、現在の建物は1979年に再建されたものです。2001年に行われた改修工事では、柱に獅子頭の彫刻、屋根に竜頭(りゅうず)瓦が復元され、創建当時の威風を伝えています。この瑞鳳殿の名誉資料館長が、仙台伊達家十八代当主の伊達𣳾宗氏です。𣳾宗氏は、明治以降初めて仙台で暮らす伊達家当主です。
「戊辰戦争の後、伊達家は明治政府から、かつての江戸下屋敷を本邸とするよう命じられたため、明治以降の伊達家当主は皆、東京で生まれ生活しておりました。十七代当主であった父は会社勤めをしていたので、例祭や法要などの際に仙台に赴くことが難しく、私は子どもの頃から当主の名代として仙台を訪れていました」と𣳾宗氏。仙台への移住を決心したのは、1974年に瑞鳳殿再建に向けての発掘調査が行われた時だったと振り返ります。
「15歳の時に遺族として発掘調査に立ち会いました。当時はまだ、焼け跡に白木の墓標が一本立っているだけの寂しげな場所でしたが、そこで政宗公の遺骨と対面しました。その時に『成人したら必ず仙台に戻り、近くでお守りさせていただきます』と心の中で誓いました」
𣳾宗氏は、1981年22歳の時に仙台に戻りました。東京国立文化財研究所、宮内庁書陵部を経て、現在は瑞鳳殿資料館名誉館長を務め、さらに伊達家伯記念會会長、伊達家鳳文会総裁として、伊達家歴代墓所や伊達家文化遺産の保存管理などを行い、この地で仕事をされています。
「政宗公生誕450年の今年は、誕生日に当たる8月3日、瑞鳳殿の特別企画として『伊達政宗公の“食”と“もてなし”』と題した講演会を主催しました。伊達家の古文書の中には、饗応料理や元日料理の御膳など、多くの献立が記されています。政宗公は、徳川将軍3代にわたって饗応をしていますが、戦のない時代に外様大名である伊達家が、将軍家と円滑な関係を保っていく大事な手段の一つだったのだと思います」と𣳾宗氏。また、政宗公のおもてなしや料理に対するこだわりについて、「馳走とは料理の数ではなく、亭主自らが旬のものを1、2品選び、自ら調理してもてなすことである、との言葉を残しています。このおもてなしの考え方は将軍家に対しても、家臣に対しても変わらなかったようです」と話します。
政宗公が城下を流れる広瀬川で、川狩りを楽しんだことが当時の記録や日記に残っています。
「今年7月に『広瀬川の清流を守る会』の皆さんと一緒に、河原に祭壇をつくり、馬上杯のお酒と焼き立ての鮎をお供えして、生誕450年のお祝いをしました」と𣳾宗氏。政宗公が生きていた400年前、広瀬川は「大川」と呼ばれていました。仙台の街を流れるその姿は当時のままで、変わらない清らかな水の流れと風景を見せています。環境を守り、文化や風習、環境を継承していくことも大切なことなのです。
伊達文化を継承するため、𣳾宗氏が取り組む活動に、伊達遊学舎の生涯学習教室があります。ここでは伊達家800年の歴史の中で伝えられてきた、武家の礼法・作法である「仙台藩作法」を学ぶことができます。
「相手を思いやり、謙虚な気持ちで学び、さらに高みを目指していく。仙台藩作法ではこれを『敬する』と呼んでいます」
仙台藩作法は、市内の聖ウルスラ学院英智高等学校で学校の設定科目にもなっており、政宗公が実践した「敬する心」は、若い世代にもしっかりと継承されています。
この秋、10月7日~11月27日には、仙台市博物館で政宗公生誕450年を記念した特別展が開催されます。「伊達政宗、伊達成実、片倉重綱の黒漆五枚胴具足が30年ぶりに揃うということで、とても楽しみな展示だと思います」と𣳾宗氏。
また、仙台市博物館の裏手には、1935年に建立された初代騎馬像の胸像があります。
初代の騎馬像は戦時中に金属供出され、戦後発見されました。現在仙台城跡にある政宗公騎馬像は1962年に再建されたものです。仙台城跡にある初代騎馬像と見比べてみると新たな発見があるかもしれません。
甲冑をまとい戦国武将として活躍した独眼竜のイメージが強い伊達政宗公。しかし、鄙(ひな)の華人“鄙にも稀な都人”とも称されるほど、優れた文化的一面を持ち、後半生は藩主として人々の安寧と国づくりのために尽力しました。
「約400年前に発生した“慶長の大津波”の時、政宗公は防潮林と貞山掘をつくりました。それから約400年後に起きた東日本大震災は、防潮林と貞山堀のおかげで津波の力が大きく抑えられたと言われています」
ボランティアで植樹を行うことも多いという𣳾宗氏は、「皆さん、何十年、何百年後の未来を想い参加しています。歴史や文化も同じように、未来の人たちのために守り継承していくことが、今の時代を生きる私たちの務めなのです」と語ります。
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