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トークネットのコミュニケーションマガジン

林風舎 代表取締役
宮沢 和樹 氏(みやざわ かずき)

プロフィール
宮沢賢治の実弟・清六さんの孫。賢治に関する講演活動、林風舎を通してオリジナルグッズや著書の販売を行う。2015年リニューアルした宮沢賢治記念館の展示監修。

株式会社 林風舎
岩手県花巻市大通り1-3-4
TEL.0198-22-7010
HP.http://www.e-haweb.com/home/rinpoosha/

宮沢賢治生誕120年
“賢治さん”と祖父の思いを後世へ

37年の生涯で詩や童話など多くの名作を残した、宮沢賢治。
作品の数々は、今も幅広い世代に親しまれています。
「林風舎」は宮沢賢治作品が読み継がれ、ゆかりの品や肖像を守るため設立。
社長であり、賢治の実弟・清六さんの孫である宮沢和樹さんに、
宮沢賢治の作品がどのように守られ、後世にどうつないでいくのか伺いました。

童話作家・詩人「宮沢賢治」の誕生

宮沢賢治の作品で生前に出版されたのは、童話集『注文の多い料理店』と、詩集『春と修羅』の2冊のみでした。

「現在、世の中に出ている作品のほとんどは、祖父の清六を通して本になり発表されました。最初はどこの出版社からも相手にしてもらえなかったそうです。祖父は尊敬する兄の賢治さんが残した原稿を、世に出すことに使命感を持って、周囲の助けを得ながら根気強く東京の出版社を回りました」

祖父・清六さんの思い出とともに語る宮沢和樹さん。当時、すでに詩人として活躍していた高村光太郎や草野心平が尽力してくれたことは、清六さんにとって大きな励みとなりました。

「光太郎先生は『春と修羅』を読み“自分の作品より後世に残る作品になるに違いない„と評価してくださったそうです。全集を出す時は、装丁して題字まで書いてくれています。そのような支えがあったから、祖父も続けてこられたのでしょうね」と和樹さん。

もう一つ強烈に印象に残っているエピソードとして、終戦の年の話を聞かせてくれました。

「東京大空襲で家とアトリエが焼けてしまい、光太郎先生が花巻の宮沢家に疎開していた時のことです。念のため防空壕を作っておいた方が良いとアドバイスされました。祖父は裏庭に防空壕を掘り、土蔵と二つに分けて賢治さんの手帳や作品原稿、資料などを保管しておいたそうです」

1945年8月10日、花巻は空襲に遭いました。家族が郊外に避難する中、清六さんは防空壕へ。焼けてしまった蔵書や文房具などもありましたが、兄に託された原稿は守り切りました。

「賢治さんは作品を残しました。しかし、その後をつなぐ人たちがいなければ作品の半分も残らなかったわけです。今、私たちが多くの作品を読むことができるのは、賢治さんが書いた原稿を守り、後世へ残そうとした祖父や周りの方々の思いがつながっているからだと思います」

和樹さんは、清六さんに聞いた、これらの話を伝えていくことは、自分の役割と受け止めているそうです。

『雨ニモマケズ』の文章は後半の“行って”という部分が大事。

祖父・清六さんを通して知る「宮沢賢治」

「私の中で宮沢賢治さんは、本を読む前に祖父から聞いたことが大きいです」

生前から賢治の良き理解者であった清六さんは、長年にわたり原稿の保存整理に尽力し、全集などの編さんや校訂に携わりました。その祖父の側で、和樹さんは作品の持つ意味や、込められた思いなどに触れる機会を得たのです。

「童話作家や詩人などの肩書きが付いていますが、実は賢治さんの専門は地質学で科学者なんです。たとえば『銀河鉄道の夜』はファンタジー作品と言われることが多いですが、祖父は“空想ではなくきちんと根拠があり、そこから想像して書かれたものだ„と言っていました」

そのことを裏付けるようなエピソードがあります。宇宙飛行士の毛利衛さんが清六さんを訪ねてきた時の話です。

「毛利さんは『銀河鉄道の夜』のファンで、どうしても聞いてみたいことがあったそうです。物語の中に、宇宙空間の中の星の輝きや漆黒の闇などを表現している部分があるけれど、それは実際に見ないと描写できない光景なのに、なぜ書けたのか尋ねました。祖父が“たぶん見えたのでしょうな„と答えると、毛利さんは納得したように頷いていました」

また、清六さんが空襲から守った賢治の手帳に、有名な『雨ニモマケズ』の詩が記してあります。その詩にまつわる興味深い話を聞かせてくれました。

「雨ニモマケズ…の文章は作品として書かれたものではないのです。賢治さんが亡くなる約2年前、体が弱っている時期に自分自身に向けたものでした。賢治さんの一面を知る良い文章だからと、光太郎先生と祖父が作品化を決めたそうです。この文章の中で大事なところは “東に病気の子どもがあれば行って〜„以降の後半部分だとよく祖父は言っていました。
“行って„という言葉が何度か出てきますが、自分が動いて実践することが大切なのだと。病床にいてそれが叶わない賢治さんの祈りだったのでしょう」

清六さんを通して、宮沢賢治の原稿が世に出て、多くの人に読まれる作品が生まれました。そして、孫である和樹さんが、清六さんを通して “賢治さん„に触れ、宮沢賢治と作品にまつわるエピソードを後世に伝えていく。これからも宮沢賢治の本は幅広い世代に親しまれ、魅力的な作品として読み継がれていくことでしょう。

昨年4月「宮沢賢治記念館」がリニューアルオープンしました。

「記念館は1982年、花巻市胡四王山(こしおうざん)の中腹に開館しました。今回のリニューアルは、若い世代の方にも興味を持ってもらえる展示を意識しました。科学や芸術、宇宙、農業など賢治さんの心象世界、イーハトーブを映像で体感できる仕掛けがあります」と和樹さん。「林風舎」や自身の講演に宮沢賢治を好きな若い方が来てくれると嬉しいそうです。

「イーハトーブは夢を実現する場所、ドリームランドとしてよく使われています」。作品には自分のいる場所をイーハトーブにすることができるという、次世代へのメッセージが込められています。

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vol.15 2016
(PDF 10.5MB)

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