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トークネットのコミュニケーションマガジン

そば処 庄司屋
庄司 信彦(しょうじ のぶひこ)

プロフィール
山形市にある「そば処 庄司屋」5代目。東京新橋の料亭「花蝶」へ見習いに入り、後に荻窪の「御免蕎麦司 本むら庵」で修行。「本むら庵ニューヨーク支店」で4年間勤務の後、帰国。和食での経験、海外での経験を生かしながら、150年続く老舗の5代目として、技と味を継承している。2010年、御殿堰七日町店を開店。

そば処 庄司屋
本店 山形市幸町14-28 TEL.023-622-1380
御殿堰七日町店 山形市七日町2-7-6
TEL.023-673-9639
HP.http://www.shojiya.jp
※お取り寄せ商品や、各店の営業時間、休業日等詳細はHPを参照ください。

地域に守られる老舗の味
山形のそば文化を広める

江戸時代末期に創業し、山形では最も老舗の「そば処 庄司屋」。

代々、先祖伝来の手打ちそばを守り続けてきました。
今年社長に就任した5代目・庄司信彦さんに、山形そばへの思い、地元に対する思いを伺いました。

日本からアメリカへ

父である武彦さんの背中を見て育った信彦さんが、そば職人の道を志したのは自然な流れでした。

「19歳の時、銀座の料亭へ修行に出ました。ところが1年半くらい経った頃、母が事故で入院してしまい、店の人手が足りない状況でしたので、修行を切り上げ実家に戻ったんです」

しかし、まだ実家に帰るわけにはいかない。そう感じた信彦さんは、再び山形を離れ東京へ。自分のやりたいそば作りを見つけるため「本むら庵」の門をたたきます。「本むら庵」は、自家製粉のシステムをいち早く導入した店で、日本のそば業界でも一目置かれる存在。信彦さんは入店後しばらくして、ニューヨーク支店勤務となり、4年間の海外生活を送ります。

「店はソーホーにあり、15年くらい前の当時は、さまざまなギャラリーが集まった街でした。店にはアーティストやハリウッドスターなどもよく訪れましたよ」

その頃すでに、健康志向のセレブの間でも和食人気は高まっており、ニューヨーク支店は日本食が食べられるワンランク上の店として知られていました。

「いかにして日本と同じ水準のものをお出しするかを、常に考えていました」

しかし、日本から派遣されたスタッフは信彦さんを含め二人だけ。文化や宗教観、あるいは食に対する考え方の違う国の人たちが集まった厨房は、きっと苦労も多かったに違いありません。

「言葉の壁はありましたが、苦労したという意識はなかったです。むしろ、文化的なことを教えるのは大変だなと感じました。たとえば、和食は料理の盛り付け一つとっても日本独自の美意識が現れるものですが、そこを理解してもらうのは簡単ではないですね」

置かれた状況の中で、最善の方法を探りながら、日本の食文化を伝えるという役割を果たしてきた信彦さん。学ぶことも多かったと言います。

「一番は、表面的なことでなく、まず物事の本質を見るということ。本質を見極めることができれば、やるべきことが見えてきます」

故郷で学んだこと

そうしたさまざまな経験を今度は故郷で生かしたいと、4年後に帰国しました。庄司屋に戻った信彦さんがまず行ったのは、父・武彦さんの技を見ること。

「父の仕事のやり方を尊敬しているものの、自分も外でやってきたというプライドから、最初の頃は毎日葛藤してました」

外の世界を知ることで、見えるものもあります。信彦さんは庄司屋のそば作りの技術は高いと断言します。だからこそ、さらに良くするため、「庄司屋の打ち方をアレンジして、一部分をこう変えてはどうか」など、意見することもあったそうです。そんな息子の気持ちを察してか、そばを作る工程に関して、細かく言われたことはなかったと振り返ります。店に戻った息子を、父・武彦さんはどんな思いで見ていたのでしょうか。

「東京とニューヨークで経験を積んできたわけですが、東京のそば、アメリカのそばにしないで、山形の庄司屋のそばをつないでくれたことが、何よりうれしかったですね」

暖簾を次の代へつないでいけることを、素直に喜んでいると言う武彦さん。そんな父に見守られながら、信彦さんは2010年4月、庄司屋の御殿堰(ごてんぜき)七日町店を開店させました。

「幸町本店にある庄司屋のそばを、七日町で伝承するという思いで開いたんです。良いものを落ち着いた雰囲気の中で食べていただくために天井や壁、家具、器などにもこだわりました」

ところが、意気込みとは裏腹に、1年目は驚くほどうまくいかなかったと言います。

「本店は、お客さまがわざわざ探して来てくださるような場所にありますが、七日町はビジネス街。客層も全然違うんです。その場所に合った商売をしなければならないという、今思えば当たり前のことを理解してなかったんですね」

店を守る、地域を守る

そして1周年を前に東日本大震災が発生。山形にも少なからず経済的な影響はありました。

「店を守っていかなければならない立場でしたので、すごく焦りました。その頃、晩酌セットやランチなど、七日町店独自のメニューを試行錯誤していた時期でもあったんです」

店のことと同時に、信彦さんは商店街の会合などにも参加するようになりました。

「商店街の理事になったり、商工会議所の青年部に入ったりして、さまざまな活動に取り組みました。地域活動を始めたら、店の方もうまく回ってきたんです」

組合や地域全体を盛り上げてこそ、自店も良くなることを実感した信彦さんは、父のことを思い出したと言います。

「店が忙しい時に父がいないと、どこに行ったんだ?と思っていましたが、実は地域活動をしていたんですよね」

実際、武彦さんは山形のそばを良くしようと奔走していました。

山形そば発展のために

「昔、山形のそばはおいしいけど、つゆがイマイチと言われていたんです。それで、新幹線も通っていなかった時代、江戸のそばを研究するために、夜行列車で週2回くらい東京に通ったり、名店を食べ歩いたりしました」

武彦さんは、東京で教えられたつゆを、山形に合うようアレンジし、徐々に現在の庄司屋のそばつゆを作り上げていったのです。さらに約30年前、「山形そば研究会」を発足させ、山形のそばの味を総体的に上げる活動に取り組んできました。その味を受け継いだ信彦さんもまた、カルチャー教室のそば講師をしたり、イベントを開いたりして、山形のそば文化を広める活動に積極的です。

「父の姿を見てきた分、改善すべき点も学べました。職人として技を磨き、お客さまに喜んでいただく。そして、組合や地域活動にも取り組む。この二つを両立させることが大切だと思います」

今年社長に就任した信彦さん。山形のそば文化、そして庄司屋の味をつなぐため、父の志を受け継ぎ奔走しています。

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vol.07 2014
(PDF 9.8MB)

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